Cory Doctorowの「QWERTYアーミッシュ」

Cory Doctorowの『Content: Selected Essays on Technology, Creativity, Copyright, and the Future of the Future』より、”Amish for QWERTY” の日本語訳です。「アーミッシュ」については Wikipedia を参照

ライセンスは原文と同じくCreative Commons U.S. Attribution-NonCommercial-ShareAlike
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)です。

2003年と少し古いエッセイですが内容は今でも通用しますね。とはいえ、ケータイの状況も変化してきてます。

AppleがiPod Touch, iPhone を出して以来、タッチパネルを備えたものが増えてきました(その一方で タッチスクリーン人気に視覚障害者が懸念 – ITmedia News という話も)。そしてキーボードを備えたスマートフォンや、ネットブックやVAIO type Pといった小型PCの登場などで、QWERTYが復権してきてます(iPhoneもソフトウェアキーボードでQWERTYですね)。

またケータイのソフトウェアも、iPhoneのAppStoreやAndroidのMarketplaceなど、ユーザが自分で選んでインストールできるようになってきました。

これからどうなっていくのか楽しみです。


QWERTYアーミッシュ (原題: “Amish for QWERTY”)

著者: Cory Doctorow
日本語訳: Takashi Sasai

(このエッセイは2003年7月9日にO’Reilly Network [www.oreillynet.com]で公開された )

僕はタイピングを学んでから、書くことを学んだ。僕の脳みそにはQWERTY配列が埋め込まれていて、目の前に101キーボードがないと大事なことは何ひとつ書けないんだ。このことはギークとしてのプライドの証になっていた: 読んで育った時代遅れのペンとインクじゃなく、僕は現代の最新テクノロジーを使いこなしている。空白を見つめながらノートパソコンにタッチタイプする。指が踊るように動いてキーをなでる。そこには、僕はエリートなんだ、というひそかなプライドがあった。

でも先週、僕のプライドは傷つけられた。ケータイのせいだ。とても親切なノキアの人が最新の高性能なカメラ付きケータイを貸してくれたんだ。これはまるで僕のSF小説に出てくるガジェットみたいだった。12キーのインターフェイスをいじっていると、まるで僕の父さんになったような気がした。無線ネットワークが使えない、60年代のコンピュータ科学者。父さんもきっとこう感じていたに違いない。まるで時代遅れの恐竜みたいだ。同じような歴史が僕を通り過ぎていった。僕は31歳。僕は時代に取り残されている。というか、僕はアーミッシュなんだ。

みんなアーミッシュはテクノロジー嫌いだと思っている。でもそうじゃない。彼らはイデオロギーの信奉者なんだ。彼らには「正しい生き方を形作るもの」という概念があり、その理想のためならどんなテクノロジーも利用するし、その理想の妨げになるならどんなテクノロジーも容赦なく排除する。息子の話を聞きたいときに、隣りの農場に荷馬車を走らせるのは間違ったことじゃない。だからキッチンに電話を置いておく必要はない。一方、不注意で家畜が死んでしまうのは正しいことじゃない。だから獣医に電話をかけるために必ず馬小屋にケータイを置いておく。

僕にとって正しい生き方というのは、101キーでQWERTY配列のコンピュータを中心としたライフスタイルなんだ。僕のカバンには大きなノートパソコンが入っていて、見知らぬ空港のトイレのそばにしゃがんで、こそこそとACアダプタをコンセントに繋いで、自分で選んでインストールしたソフトウェアを動かして、無線ネットワークを使って通信する。僕は通信料を一銭も払わずにネットワークを使い、誰の許可も必要なくどんなソフトウェアもデバイスにインストールできる。正しい生き方とは、大きく変化する、コモディティなハードウェアによる、パブリックでフリーのインターネットなんだ。つまり僕は、QWERTYアーミッシュなんだ。

僕は神経インターフェイスのベータテストを喜んで引き受けるような、万年アーリーアダプター(新しもの好き)さ。でもケータイの12ボタンのキーパッドを突きつけられたときには、気がつくと精神的なパニック状態になっていた。たとえそのインターフェイスが、ストラップをぶらさげた日本の女子高生から、韓国の選挙管理人や草むらに潜んだフィリピンゲリラまで、世界中の何百万もの人に熱烈に受け入れられているものであってもダメなんだ。それに、あらゆるメッセージにお金を払わなきゃいけないという考え方は、僕の大事なところを切り刻んで、反射的に、テキストメッセージは根本的に非民主的なものだ、メールは空気みたいにタダなのに、という道徳的信念を僕に呼び起こした。また、僕のケータイで動かせるソフトウェアは独裁的なケータイ電話会社が許可したものだけという考え方は、安全な場所に避難しなきゃいけないぞと僕に思わせた。

机の下に隠れて片手でテキストメッセージをパチパチ打ちながら、もう一方の手でノートをとっている親指世代。彼らもひどい目にあうだろう。変化が加速しているということは、僕らはみんな、消える運命にあるインターフェイス(ツールや世界とのコミュニケーション方法)と結婚しているということだ。12ボタンの使い手はケータイ会社と結婚していて、利用や改善に許可が必要な中央管理ネットワークと結婚している。肝心なところを中央集権化したスターリン主義のテクノロジーは、ケータイ電話会社の規則と気まぐれに左右されている。ケータイ電話会社が純粋でオープンなインターネットによって打ち負かされたずっと後も(もしそんな輝かしい日がやってきたらだけどね)、現代のこどもたちはケータイのインターフェイスとその規約に縛られていることだろう。

未来に関してたったひとつ確かなことは、そのアーミッシュさだ。僕らはみんなインターフェイスに合わせて脳みそをねじ曲げている。そのインターフェイスはいつか見捨てなきゃいけないものか、後に残すべきものかのどちらかだ。自分のインターフェイス、そしてそこにある価値を、よく注意して選ぼう。思考プロセスを指のダンスと結婚させてしまう前にね。あなたはそれから離れられなくなるかもしれないのだから。